桐生びとをたずねて 第7回
今回は、桐生市内に山猫しろシャツ店という工房を構え、服や帽子を製作している青木りつ子さんにお話を伺いました。(しのばずオブジェ展で池田満寿夫が審査委員長の時に入選。その後仙台アート展など、様々なアート展に出展。桐生のファッションコンペティションに入選後、ファッションショーに参加。)桐生だけでなく、足利や東京の繊維・織布業界の方から展示品の依頼を受けることも。一店一作家プロジェクトメンバーとしてもご活躍をされています。
服を作るお仕事に行き着くまでの背景を教えてください。
青木 桐生市の出身で、家は内装関係の仕事を親族みんなで運営していました。おもちゃや竹馬、私と姉が遊ぶ時用のドレスなど、家族だけでなく従業員の方々も私達の要望に応え色々作ってくれたことを覚えています。両親が働く寂しさはあったものの、工場に行けば何かしらで遊べ、家の敷地内から出る必要があまりありませんでした。この頃から、「欲しいものは自分で作れる」とどこか思っていたのかもしれません。
ですが中学2年生のある日、学校から帰宅したら大好きだった工場が空っぽになっていました。会社は無くなり、家は引っ越していました。私は市内の別の中学校に転校しましたが、子供ながらに両親に何も聞けなかったことを覚えています。
多感な時期に大きな出来事がありましたね。
青木 小さい頃は、絵描きになりたいとどこかで思っていましたが、大きな夢を抱ける心情ではありませんでした。身近なことで、自分の出来ることを探す気持ちになりました。洋装店を開くのが夢だった母の影響もあり、洋裁の学校に通いました。ですがどうしても美術学校に通いたいという思いが強く、卒業後美術学校に通いました。
学校卒業後はドレス制作の会社や洋装店、刺繍会社で働きながら、自分の服や、依頼を受けた服を作っていました。仕事が好きで、休日出勤や残業をしながらも質や量をこなし、珍しい物や技術を目にすることができました。ですが制作意欲が強くあり、時間の束縛がある会社勤め形態は向いていないのではと思っていました。けれども刺繍の会社では、新しい特殊なミシンや機械を任せてもらっていたこともあり、結局最後まで残っていました(笑)。
現在はその会社の2階をアトリエとしてお借りし、個人で工房を構え製作しています。
作るものをシャツに絞っていると伺いました。
青木 洋裁学校時代、現代アートのような感覚で、服でアートを作りたいと考えていました。美術学校時代は、永遠に残る服を作りたいと思い、金属や塩化ビニールで服を作ったりしました。
反面、「服をちゃんと作る」ということは、自分にとって難しいと思っていて、今でも目標にしています。中でもシャツはシンプルに見えて、一般的に難しいと言われています。カフス、襟、台襟、ケンボロ、ヨークとパーツが多く、手がかかります。でもその変わらない形が魅力で、作る服をシャツに絞りました。色々と制限した方が、常識を超える物を作れて自由度が増すと思いました。既成の枠からはみ出す様な感覚。何でもよかったらイメージや求めるものが分散してしまう感じ、自由度は減る気がしました。いつしか普通のシャツから、オリジナルを求めたくなり、今に至ります。
今は、自由になれる方法を見つけた気がします。服や帽子を作っている時間は、何より大切です。作ること=自分にとって必要なことと思っています。嫌なことを忘れられるし、みたい夢もみられます。ずっと作り続けていると、思いがけない良い結果が出たり、コツコツやっていれば時間は裏切らないのだなと実感します。
青木さんが感じる桐生の魅力を教えてくださいますか?
青木 現在も桐生市内に住んでいますが、ご近所付き合いなどの地域的な交流や会合は、正直に言うと今も苦手です(笑)。
ですが市内で頑張っていらっしゃる作家さんや、県外、海外から桐生に来た方々と仲良くなることがあります。
作った服を作品展に出してみないかと初めて勧めてくれた方も、東京の方でした。それまでは服を作品展に出すという発想がありませんでした。
広い世界観を持つ方は、多くを受け入れてくださる様に感じます。新しい出会いの場があることも、桐生の魅力だと思います。
青木さんの優しく丁寧な人柄が、シャツや帽子の作品にも滲み出ています。ご本人はあまり流れに逆らわない様に生きてきたと仰っていましたが、過去を受け入れ、強く美しく生きていて、一本芯が通っている様に感じました。